臥龍桜 4 龍華成先生作

痛い程の夏の日差し。今日もまた、暑さに疲れた旅人が、臥龍の木蔭に涼を求める。
「ほう、これは立派な・・・・」
重い荷を背負った商人がついと笠を持ち上げて、濃緑の衣を纏った臥龍を見上げる。
足元に落ちた木漏れ日が綺羅と目にまぶしい。先客が臥龍の根元で汗を拭っていた。
額に浮かぶ汗に手拭を当て、先客はふうと息をついた。商人に気付いて顔を上げる。
「尾張の方から来られましたな。これから何れへ?あ、さあどうぞ」
勧められ、商人は先客の隣に荷を下ろした。慣れた手付きで笠を取り、腰を据える。
「安土に行こうと思っております。あちらでは、楽座のお陰で街が賑わっていると
 聞き及び、新しく商いを始めようと」
膨らむ希望に顔をほころばせながら、商人は右脇に置いた葛篭を誇らしげに叩いた。
「そうですか、安土と言えば、いま岐阜様が新しい城をお作りになっているとか」
「えぇ、それも楽しみにしております。天にも届かんばかりの大層煌びやかなお城だ
 そうですよ。それはそうと、お侍様はどちらへ行かれるのですか?」
「お侍などと・・今は浪浪の身なれば、某は美濃で岐阜様に御奉公したいと。
 直臣が叶わぬならば、岐阜様の御家来衆に仕官してお仕えしたいのです」
「それはよろしいですなぁ。岐阜様は近い内必ずや天下を御取りなされるでしょう。
 しかし、もし仕官が叶わなかったら如何なさるおつもりですか?」
「はい、あ、考えておりませんでした。如何仕官しようかとそればかりを・・・」
先客の若い侍は恥しそうに頭を掻いた。まだ前髪を落としたばかりらしく初々しい。
さて如何致したものか・・・とふたりで知恵を絞っていると、天から声が降ってきた。
「俺が推挙してやろう」
天の声が聞こえるなど、熱さで頭が如何にかなってしまったのかと侍は頭を振った。
「上だ、うえ」
再び天の声がした。上といわれてふたりは見上げる。木漏れ日が目に入って痛んだ。
手をかざして目を凝らすと、ひらりひらりと人影が枝の中に揺れているのが見えた。
「貴殿は・・・?」
「名乗る程の者ではない」
木漏れ日を背負って顔は窺い知れなかった。眩しさに目を瞬かせながら商人が訊く。
「名乗る程の者ではない貴方が、何方に推挙して下さるというのです?」
「誰でも構わぬ。誰がいい」
「誰と申されましても、話が突然すぎて・・・貴殿は織田軍の方で御座りまするか?」
「織田軍?まあそんなところだ。ところで何故あれに仕えたい、何故武田や上杉、
 北条、徳川ではない」
「あれとは・・岐阜様のことで御座るか?」
「無論」
岐阜様をあれ呼ばわりするとは、侍は憤慨しながらも怒っては大人気ないと堪える。
「岐阜様には天下の先が見える様な気がするのです。武田や上杉には天下を取った
 先に何を成そうとするのか見えませぬ」
若い侍は、まだあどけなさの残る顔を紅潮させて力説した。樹上の男は畳み掛ける。
「では、何が見える」
何が、と問われて彼は返事に窮した。
「何と云われましても、なにが・・・・・・・・・・・絶対の秩序が治める新しき国・・・とでも
 申しますか・・・・巧く申せませぬ」
「青いな」
男は小さく笑った。
「青いとは!?」
だが、羨ましいことじゃ。その呟きは葉ずれの音に負けてふたりには届かなかった。
男は続ける。
「あれは叡山を焼き、長島の一向宗徒を根切りにした。僧兵、足軽はともかく、
 子供も女もだ。お前は斬れるか?めしいた翁の背を、稚児の首を、身重の女の腹を」
「!・・・・」
「あれについて行くなら更に酷きものを見るだろう。今なら引き返せる」
「・・・御忠告、傷み入りまするが、覚悟の上で申しております」
「お侍様・・・・」
商人が青ざめた顔で若い侍を見遣った。彼の黒い瞳は真直ぐか彼の人を見つめている。
「神仏に何が出来ましょう。この世の地獄を終わらせるのはあの方しかおられませぬ。
 地獄が続けば更に多くの者が死にましょう。終わりの見えぬ地獄の方が酷きものに
 御座りまする」
とんっと樹上の男が膝を叩いた。
「よし分かった、紙と筆はあるか?」
慌てて侍が背中の包を探っているうちに、商人が葛篭から巻紙と筆を取り出だした。
男は受け取った巻紙をさらさらと解くと、いきなり筆を下ろし、一気に書き上げた。
「城へ行き、堀秀政にこれを見せよ」
男が投げて寄越した書状には、この者を近習に迎えるべし、との旨が記されていた。
左端に書き殴られた署名と花押を見て、侍は男が只のほら吹きではないと確信した。
力強いが滑らかな手蹟に、書き慣れた観のある花押。只何と読むか分からなかった。
「三助殿と申されまするか、某、万見重元と申しまする」
「うん」
「真にかたじけのう御座りました。いつかまた御目にかかりとう存じまする。では、
 先を急ぎたいと存じます故、此れにて御免候え」
侍は書状を懐に収めると、笠を手に立ち上がった。商人も続いて葛篭を背に負った。
「岐阜は通り道ゆえ、お共いたしましょう。失礼申します」
ふたりは丁寧に頭を下げて、畦道を抜け、森に消えた。侍はずっと手を振っていた。
臥龍が見えなくなると、商人はほうと息をついた。気付いて、若い侍が話し掛ける。
「如何なされた?」
「いえね、あの男、一体何者だったのでしょう。織田の将があんなところで何を
 すると言うんです?それにその書状も・・・」
商人がいぶかしげに若い侍の懐を指すと、彼は大切そうに胸を押さえて微笑った。
「いいのです。此れが本物でも贋物でも。あの方が何方でも。あの方に訊かれて、
 より意志が固まりました。仕官が叶わなかった時の事など、もう考えませぬ。
 ひたすらに前を見て臨むのみで御座る。こうなっては居ても立っても居られませぬ。
 さ、参りましょう!」
二人の歩調が早まる。道は真っ直ぐ岐阜へと続いている。侍の道も彼に続いている。
陽炎に揺らめく濃緑の森に、二人の姿が消えると、臥龍はざわざわと葉を揺らした。
「いい若者だったな。だが誰も彼も信長、信長、信長!何故だ!私には分からない、
 お前もそうだ!三助。何故彼に仕える!?私はあの言葉を忘れてはいないぞ!」
一段と激しく枝葉を揺らし、臥龍は問う。三助は物憂げに口をむにゃりと動かした。
「何のことだ」
「蝮殿に言ったろう。人に仕えるくらいなら腹割っさばいて死んだ方がましだ、と」
「ああ、そんなことも云ったか」
「三助!」
怒って臥龍が余りに激しく枝を揺すったので、地面に近い枝が一本折れてしまった。
「自分を傷付ける馬鹿があるか。桜は手折るとそこから腐るのだろう?」
三助は紅い小袖の右袖を口に当て、ピッと引き裂いて、枝の折れたところに巻いた。
三助は造作も無く裂いてしまったが、見れば、紅絹の鮮やかな小袖で、その袂には、
見たこともない、たぶん三助がいつも言う、南蛮とか云う異国の刺繍が施してある。
「信長をあれと呼ぶのは、本当は心から信長に従っていないからなのだろう?」
すがる様に尋ねる。
「信長が嫌いか」
「お前を苦しめているのは信長だろう!?」
三助の頬が僅かに動いた。三助は答えず、暫くの間黙していた。やがて口を開くと、
「人の心を捨てられれば、迷うことは無いのだ。鬼ならば楽になれる」
言った。
「こなたを美しいと思う心を捨てたくはない・・・・・だが、あれを捨てる事もできぬ」
「なぜ・・」
「ふふふ、では何故こなたを捨てられんのだろうなぁ」
ひらりひらりと三助は日向に出た。一面の緑の中に、赤い姿が染みて花弁のようだ。
「こなたを捨てれば、俺は鬼になれるのに」



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