落下 早緒里先生作

何故俺はここにいるのだろう?
何故奴はこの俺を見下ろしている?
忠誠心ならば誰にも負けないこの俺を見下ろして、奴は、一体何を想っている?
愚かな男と笑っておるか、それとも、目の前に急に現れた天下を見ておるのか。
奴の瞳には何が映っている?
弱き者か。
負け犬か。
この俺か。

奴が天下を狙っていることは、わかっていた。
止められなかった。奴の暴走を止められなかった自分が、そして何より奴が憎い。
奴は秀頼君をどう見ているのだろうか。
主君か。いや違う。奴の目が否、と言った。
では天下取りの道具か。不完全な玩具は捨てられる運命か。
憎い。
奴は確かに強かったが、勝てない戦ではなかったはずだ。
小早川秀秋。
奴が裏切らなければ。
脇坂、小川、赤座、朽木……。
憎悪。

朽ちていく葉の色。錆びた刃の色。壊れた玩具。ちぎれた雲。人の声。
哀愁。
この俺からは、もはや哀愁しか漂わぬか。
情熱に満ち溢れ、忠誠心のみで戦っていた、以前の俺は今何処にいる。
流れが止められなかったからか。もうじき死ぬからか。

俺は正義のつもりだった。自分でもそう信じていた。今でも。
だが、これから時が経つと、きっと俺は悪人として名を連ねるのだろう。
勝った者が正義なのだから。
そんな世界で、
俺は、
負けた。
負けたら悪となる定め。

喉が渇く。そのせいか声がかすれ、自分でも情けない声がこぼれる。
「喉が渇いた。茶か湯を一杯くれぬか」
「茶、ですか。あいにく茶はござりませぬが」
役人はすこし考えていた。と言ってもほんの数秒。
刀が走ってから俺が絶命するまでの時間か。それとも、奴が天下をとるまでの時間か。
「柿ならばあります。お持ちしましょうか?」
役人の目には、俺への哀れみが確かに混ざっていた。

「いや、いらん」俺は役人を睨みつける。「柿を食って腹を壊しては困る」
周囲にいた者が一斉に笑い出す。それほどまで可笑しいか。異常か。俺の執念は。
これから首を斬られる身。どうせ死ぬ。そんな俺が、たかが腹痛を恐れていると。
違う。
俺が恐れているのは、腹を壊すと、いざという時に奴を殺せないこと。
俺は、処刑される最後の最後まで奴の命を狙う。不忠者の家康の命を。
並んで、俺を見下ろしている奴等。
濁った目をして、笑っている奴等。
あきらめない。
生きている限りは。いや、たとえ首を斬られようとも俺は奴等を狙う。
こんな俺は、可笑しいのだろうか。どうしようもない馬鹿なのだろうか。

……。
否。

奴等から見れば可笑しいのだろう。忠を知らぬ哀れな者たち。
俺たちにとっては、可笑しくも何ともない。
――三成殿らしい。
そう言って、俺と共に戦った。
大谷殿。

俺の計画を無謀だと言いつつも、西軍としてこの俺と運命を共にして戦ってくれた。
俺の、ただ一人の本当の友であった。
だが、大谷殿は死んだ。秀秋の裏切りのせいで。

大谷殿の首は見つからなかった。それが唯一の幸いか。
癩病。人は大谷殿を恐れた。大谷殿は苦しんだ。
きっと奴等は醜いと言うのだろう。顔を歪めて、大谷殿を嘲笑うのだろう。

愚かな。

大谷殿は醜くなどない。それはこの俺が一番よく知っている。
奴等不忠者には醜く見えるのだろうか。
歪んだ心を通して全ての物事を見るからか?俺にはわからない。
いや、わからない方がいい。
俺は、わからない自分を誇りと思う。

大谷殿は、澄んでいる。

関ヶ原で戦った、そして命を落とした皆の者、俺もすぐにそちらへ行く。
時代を流れ流され、ぶつかり合いながら滝を落下し、そして辿り着く。
俺は、滝の途中に飛び出た頼り無い枯れ枝に必死でしがみついていた男。
細く頼り無い枯れ枝に命を預けて、腕が痺れ目眩がしても、それでもまだ遙か上流を漂う奴を突き落とそうと狙っている。
だが、枯れ枝は必ずいつか折れる物。
大谷殿、皆の者。この俺を、三成を憎んでいるか。
無理はない。皆を、そして大谷殿をも殺したのは、この俺のようなものだから。
愚かな三成を、許してくれ。
大谷殿。俺がそちらへ行っても、昔のように、

友でいてくれるか?

風が渡る。
刀が振りかざされる。
一瞬光が煌いて、そして散っていく。
                   終。



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