三國志VII 奮闘記 外伝5

 

その男は、幸村(ゆきむら)の顔を凝視したまま湯呑みを置き、
じっと考え込んでいた。
幸村も、男の目をじっと見据えていた。
小さな部屋だった。
卓の上には何冊かの書物が置かれている。
2人の男は、相変わらず向かい合ったまま動かない。

「どうなさいました?新荘(しんじょう)殿」
幸村をこの屋敷へ連れてきた香香(しゃんしゃん)が訊いた。
新荘と呼ばれた男は、黙ったまま腕を組んでいる。
新荘は、人物評をよくすることで知られている男だった。
しかし時に鋭い舌鋒で人を批判するため、近頃はここを尋ねる者も
少なくなっているのだが…。


小半時ほどして、ようやく新荘が口を開いた。

「その顔相…。貴公は、倭(やまと)の者だな?」
新荘は、幸村に尋ねた。
「ヤマト…?」
幸村は、その言葉を反芻してみた。
その言葉の響きに、何かピンと来るものがあったからだ。

「もしや貴公は記憶を無くしたのか?」
新荘は、唖然としたまま考え込んでいる幸村に尋ねた。
「はい。海に投げ出され、気が付いたらこの大陸にたどり着いていました」
幸村は、新荘の視線から目をそらさず答えた。
「間違いあるまい…」
新荘はそう云って、幸村の傍に立つ香香に目をやった。
「やはり、あの子と関係があるのですね」
香香は、少し嬉しそうに云った。
「あの青年…信幸(のぶゆき)殿は、弟の身を案じていました。
 あなたが、その弟であれば良いと思っていましたが…」
香香は続けた。
幸村は何がなんだかさっぱりわからない。

「兄を、覚えてはいないのか?」
「兄…それがしに兄が…?」
「ああ、なんということだ。貴公は、兄の信幸らとともに海を渡り、
 倭からこの国に遣わされたのだ。その使命を、忘れてしまったのか?」
新荘は苦々しげに訊いた。
「無理もないですわ。台風で船は沈み、その衝撃で記憶を
 なくしてしまったんですから」
香香が取り繕うように云う。
「そなたの兄・信幸殿は十年ほど前、行き倒れになっているところを、
 この新荘殿に救われ、私が屋敷に引き取りました。
 彼は聡明な子で、2〜3年すると自分で商いをするようになりました。
 そして、曹将軍に仕えつつ、弟の貴方と、あの男を捜していたのです」
「あの男とは…?」
「本当に何も覚えておらぬようじゃな…」
新荘は息を吐きつつ続けた。
「貴公と兄・信幸は、一族の敵であり、親の仇である哲坊(てつぼう)
 殺すために、倭(やまと)から派遣されたのじゃよ!」
「…………!」

頭の中を衝撃が走った。
言葉が出なかった。
新荘の言葉を分析するのに、かなりの時を要した。

哲坊を…殺す?

親の仇?

なぜ……?

壁の一点を見つめたまま動かないでいる幸村に、
香香が云った。
「信じられないかもしれないけど、
 貴方は倭の国の真田一族の戦士なのです…」

「サナダ…一族…」
幸村の脳裏に、はるか東の海の彼方に浮かぶ島国の映像が
一瞬だけよぎった。が、
「ああ……分からん。思い出せない!」
幸村は目を閉じて頭を抱え込んだ。

「貴公の兄は鳳凰(ほうおう)と名を変え、今は
 哲坊のもとにおる。そして、奴を殺す機会をうかがっているのだ」
新荘は、幸村の肩に手を置いて云った。

「しかし!」
幸村は顔を上げ、云った。
「しかし、哲坊は、それがしの父だと…河北で…」
「そんなことを、誰に云われた?」
「河北の雅昭(がしょう)殿に…」
「雅昭?…ああ、あの絵描きか。あの男なら、わしも知っている。
 昔、よく酒を飲んだが、あの男には夢想癖があってな。
 たまに変なことを云うのだ。おそらく、貴公が倭の者だと知って、
 同じ倭の者である哲坊と結びつけたのであろう。困ったものだ」
「哲坊…も、倭の者なのですか?」
「ああ、そうだ。あの男は昔、倭からこの国へ渡来して来た。
 いや、逃げて来たと言ってもよいかな。そう、わが父のように」
「新荘殿の父上も?」
「左様。昔から倭よりこの大陸を目指して渡って来る者は多い。
 父上はもう死んだが、この新荘にも、そして、香香殿にも倭の血が流れている」
香香がうなずいた。
「哲坊は、倭で貴公と信幸の両親を殺して逃亡した。
 貴公らの父は、真田一族の王の弟だった。
 一族の者から何人かの勇者が選ばれ、まだ幼かった貴公らを連れ、
 哲坊を追って海を渡った」
「しかし、船は沈んだ」

その声に、3人は、入口を振り返った。
曹操軍の軍師・荀イクと娘・諸葛音(しょかつおん)だった。
諸葛音は、荀イクの娘として迎えられ、姓も戻していた。
皆は、彼女の名と字(あざな)をとって「音乃殿」と呼んでいた。
「文若殿か」
新荘は立ち上がって父娘を迎えた。
「すまんとは思ったが、話を聞かせてもらいましたぞ。
 幸村殿の並々ならぬ武術の上達の理由がわかりましたわい」
荀イクは、卓のわきに腰を下ろしながら云った。
「今日は、改めて幸村殿に、娘の命を助けて貰った礼を述べに参ったのじゃ」
「なにしろ、真田一族の戦士ですからな」
新荘が答えつつ、湯気の立つ湯呑みを父娘に差し出す。
「父上、先程から新荘殿が言われている真田一族とは…?」
諸葛音は、聞きなれない言葉だったらしく、父に尋ねた。
「香香殿、この子らに説明してやってくださらんか?」
荀イクは、香香に頼んだ。
香香はうなずくと、説明をはじめた。
「真田一族は、倭の国の豪族で、
 破壊・暗殺・諜報活動などを生業とする戦闘部族です。
 一族の子供は、生まれて間もなく、人を殺すための格闘の基礎を親に教わり、
 同年代の子供らとともに、山中で厳しい修行を受けさせられます。
 その修行は、普通の大人でも耐え難い厳しいものです。
 当然、脱落する者も出ます。そして修行に耐えぬいた子だけが、
 親のもとに帰ることを許され、脱落した子は山を下ろされて捨てられるのです」
「幸村殿は、その修行を…?」
諸葛音の問いに、新荘が答えた。
「幸村は、まだ修行の途中だった。
 ただ信幸の話では、信幸は脱落し、下山させられたそうだが、
 幸村は一族の中でもとりわけ優れた才能を持っていたようだ。
 それからのことは、信幸も語りたがらんのだ。
 ただ、哲坊に両親を殺された、とだけ云った」


はるか記憶の片隅に、昔の光景が蘇える……

悲鳴…

火と煙…

刃物の打ち合う音…

また悲鳴…

つかの間の静寂…

母上…!

「母上…!」
幸村は叫んでいた。寝台の上だった。
長安からの帰途、夜営中の幕内だった。
この日、曹操軍は哲坊の治める長安を攻めた。
大将は曹操の息子・曹彰。以下曹植、ホウ徳、新荘香香
何晏、楊儀、曹仁ら9万の軍勢。
幸村は、新荘隊の一部将として戦闘に参加した。


潼関での乱戦の中、新荘が突如前進し、敵軍の将に呼ばわった。
「哲坊!政治も判らずに、たいした展望も無く乱世の舞台に登場するとは!
 今なら全軍を率いて降れば曹将軍は許してくれようぞ!!」
新荘が叫んだ先に居た将は、多くの兵に守られていて顔をよく見ることは
できなかったが、敵将・哲坊であることは間違いなかった。
全身の血が沸き立った。
あれが、俺が追って来た男…!
無意識に馬腹を蹴っていた。

100人は斬っただろうか。
しかし、斬っても斬っても敵兵は押し寄せる。
数が違うのだ。
新荘隊は、哲坊隊・餡梨(あんり)隊の反撃に押しかえされ、
次第にその数を減らしていた。
幸村の真紅の鎧が、返り血を浴びてより赤く染まっていた。
ふと見ると、哲坊軍の奥深く、1人の小柄な男に目が止まった。
「兄上…?」
どうやら向こうも、こちらを見ていたようだが…。
曹彰の本隊が崩れた。退却の銅鑼が鳴らされ、
幸村は敵兵の群れの一角を切り崩して馬を返した。

終わってみれば曹操軍の惨敗だった。
哲坊軍の追撃をなんとか振り切り、
洛陽への帰途、夜営をして眠りについたのだった。

眠気が覚めてしまった幸村は、外へ出た。
見張りの兵士らが、道を開ける。
春になるというのにまだ肌寒く、息は白い煙となって吐き出された。
澄んだ空気に満天の星空が広がっていた。
幸村は、はるか東の海に浮かぶ倭の国に思いを馳せた。

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