家康死す yudai先生作

元亀三(一五七二)年十二月二十二日。遠江国三方ヶ原。この台地に誘い出されたの
は一万一千の兵を率いた三河の大名徳川家康。彼を誘い出したのは甲斐の名将武田信
玄。率いる兵は二万五千、家康軍の二倍を裕に超える。この時、家康三一歳、信玄五
十二歳。
 信玄は家康を居城浜松城から誘い出す為、台地を横切ろうとした。家康は信玄の思
惑通り台地に向けて追撃を開始した。家康軍は台地を下る信玄軍を追撃し続けた。そ
の時、両軍の起こした砂煙がはれ、家康軍の目前には無数に風林火山の旗印を翻す信
玄軍が姿を現した。
 午後六時、家康の家臣榊原康政隊の攻撃によって合戦は始まった。康政は、信玄の
重臣内藤昌豊の軍を攻撃したが、昌豊は百戦錬磨の猛将であった。しかも、背後から
同じく武田家の重臣馬場信房が襲撃してきた。康政は家臣を無駄死にさせてはならな
いと考え、撤退した。そして、同僚である本多忠勝・酒井忠次等と陣にて会議を開い
た。
「小平太!どうすると言うのだ、だから儂は殿に進軍を止める様に申したと言う
に………」
ここで一番年長である酒井忠次が口を開いた。小平太とは康政の仮名である。
「とは申されましても………酒井殿、今となっては後の祭りというものにござります
るぞ。今はいかにして信玄を
討 つ かを考えるべきにござる。」
「小平太、儂に良いはかりごとがある。」
「何じゃ、平八郎。」
康政に声を掛けたのは同い年の本多平八郎忠勝である。
「儂と酒井殿が、信玄の本陣を突くゆえ、小平太は殿の軍と信長殿の援軍を寄せ集
め、内藤昌豊の動きぜよ!」
「よし!」
忠次、忠勝、康政が出撃を決意したその時、彼等の陣に思わぬ文が舞い込んできた。
差出人は家康の馬廻りの一人であった。
「家康公本陣に奇襲あり。どなたか警護に来られよ。」
忠勝は家康の本陣に馬を走らせた。そして、家康の本陣に到着した時、
「平八郎殿!」
「忠勝殿!」
「殿が!家康公が!」
「どうしたのじゃ、しっかりせい!」
忠勝は周りに集まってきた家康の家臣に怒鳴った。そして、その家臣の行く方につい
て行った。
「殿!」
そこでは多くの家康の家臣たちが泣き崩れていた。
「殿………殿!平八の声が聞こえませぬか!殿………」
家康は武田家の重臣山県昌景の奇襲に合い、昌景の家臣に討ち取られていたのであっ
た。忠勝は家康の鮮血の飛び散った場所で、彼の甲冑に向かって泣いていた。
「山県三郎兵衛!断じて許せぬ!者共!狙うは昌景の首一つ、続けや者共!」
忠勝は家臣を従えて昌景の陣向かって馬を飛ばした。忠勝は、過去に家康と共に戦っ
た合戦を思い出していた。織田軍に大敗した桶狭間。単騎で朝倉勢に突撃し、圧勝し
た姉川合戦。家康の出陣した合戦にはいつも共に出陣してきた。そして、昌景の陣に
着いた。
「そなたは山県三郎兵衛昌景殿でござろう。我は、家康公の家臣、本多平八郎忠勝な
り。本年生年二十五歳、い  ざ見参せん!」
「そなたが本多平八郎殿か。仰せの通り、我が山県三郎兵衛である。忠勝殿、そなた
は儂に不足のない敵ぞ!」
「望むところ。我がお相手になろうぞ。家康公の無念、我が晴らさん!」
忠勝は太刀を抜き、昌景に向かって振り下ろした。昌景はそれを自らの太刀でかわし
た。そして、その太刀を忠勝に向けた、その時、忠勝が昌景に組み付いた、昌景は自
分の太刀に手が届かない姿勢になってしまった。
 そして―――
「三河の国の住人、本多平八郎忠勝が山県三郎兵衛昌景討ち取ったるぞ!」
武田軍最強の武将、山県昌景は本多忠勝に討ち取られ、三方が原を血に染めた。その
頃、忠次が忠勝の元へやって来た。
「平八郎!」
「酒井殿!」
忠勝は昌景の首を忠次に見せた。
「おう!やりおったな平八郎!」
「酒井殿!今より信玄の陣を突きますゆえ………そうじゃ、小平太はどうしたのじゃ
?」
「小平太は内藤、馬場の軍を食い止めておるが………時間の問題じゃ、すぐに救援に
向かうぞ!」
「分かりましたぞ!」
忠次と忠勝は康政の元へ向かった。
「小平太!」
「平八郎、酒井殿!儂は………織田殿の援軍を何人も死なせてしもうたわい。」
「なぬ――」
忠勝は改めて信房、昌豊の恐ろしさを知ったが、今は突撃あるのみである。
「掛かれぇ!」
忠勝の号令一下、本多、榊原、酒井軍は一斉に馬場、内藤軍に襲い掛かった。虚を突
かれた馬場軍は壊滅し、信房は生き残った数十名の家臣と共に落ち延びて行った。馬
場軍が壊滅すると、全軍が内藤軍を襲撃するに至った。昌豊は、忠勝の家臣梶金平勝
忠に討ち取られた。そして午後六時、武田軍敗走。この合戦は引き分けに終わったと
はいえ、武田軍では山県昌景・内藤昌豊といった諸将が討ち取られ、徳川軍は総大将
を失うという致命的なダメージを受けた。その上、家康の嫡男信康は勇猛果敢な反
面、粗暴な性格であった。その為、酒井忠次等老臣との不和を招いた。やがて、忠次
は信長の家臣となり、信康は忠勝、康政らによって勇猛果敢で、退く事を知る名将と
なった。信玄は、この合戦の後に病没、その子勝頼は設楽が原で信長・信康の軍に敗
れ、その七年後に天目山の麓で滅亡した。家康戦死から、約一〇年の月日が流れてい
た。