お館様
お館様

織田信長と茶の湯

ここでは、織田信長と茶の湯の関係をご紹介します。織田信長の茶の湯に対する価値観や利用方法はいったいどういうものだったのでしょうか?様々なエピソードを織り交ぜ、ご紹介したいと思います。
ちなみにここで登場する茶道具は主に茶器(茶壷、茶入)、釜、茶碗です。


茶道具の収集

茶の湯に対しては、尾張時代、京都から来た公家が織田信長の守役平手政秀の茶室に驚いた、などという話もあるので、若い頃から親しむ環境にはあったようです。

それが、「名物狩り」と言われるまで、本格的に茶道具を収集し始めたのは、永禄11年に上洛した際、松永久秀や今井宗及に茶器を献上されたのがきっかけとされています。
このとき献上されたものは、松永久秀から「九十九髪(九十九茄子、付藻茄子)」、今井宗及からは「松島の壺」「紹鴎茄子」が贈られ、いずれもとても価値の高いもの。

その後、「金や銀、米やお金は十分あるので、唐物や天下の名物を集めよ」と松井友閑・丹羽長秀に命じ、沢山の名物といわれる茶道具を入手しました。

※「名物狩り」といっても手当たりしだい入手するのではなく、信長なりの基準で選んでいたようです。

高まる価値

そして、集められた名物達は、趣味として終わるのではなく、政治的に大いに利用されました。元々非常に価値の有る名物を集めた織田信長は、これらを茶会で披露し、まさに織田政権の富と権力を誇示したのです。
また家臣団の統制にも利用しました。名物を有する事に高いステータス性をもたせ、一国一城に匹敵する価値をつけたのです。

それを示すエピソードとして、滝川一益の例が挙げられます。彼は武田攻めの褒美として、関東官領職(正確には『関東八州の御警固』及び『東国の儀御取次』)と上野一国、信濃の二郡をもらう事になりました。しかし本人は「武田を討ち果たした後、褒美は何がよいと言われたら、なすび(茶器)と言おうと思っていたが、そういった事はなく、こんな遠方に置かれ、茶の湯の楽しみも尽きてしまったよ…トホホ」と官位と一国を与えられたのにもかかわらず、茶器をもらえない事にがっかりしたのです。

褒美として

残念ながら滝川一益はなすびをもらうことはできませんでしたが、ここでは織田信長が名物を与えた例を挙げてみます。まずは柴田勝家。彼には「天猫姥口釜」が与えられています。姥口釜と呼ばれるのは釜の口が歯の抜けた老婆の口に似ているからだそうですが、これも名物。
その他ざーとあげると、以下のようなものがあります。

柴田勝家→柴田井戸(茶碗)
丹羽長秀→白雲(茶器)
明智光秀→八重桜(茶器)
羽柴秀吉→乙御前(釜)
織田信忠→初花(茶器)、松花(茶器)
大友宗麟→新田(茶器)
今井宗及→紹鴎茄子(茶器) 一度もらったが再び下賜
津田宗及→珠光文琳(茶器) 一度もらったが再び下賜

ちなみに信長配下の上から5人は茶会を開くことが許されています。元々家臣達に茶会を自由に開くことを禁じていたので、茶会を開く権利を与えられることは最高の名誉で、まさに織田家の重鎮の証といえるのではないでしょうか?ちなみに茶会を開くことを許された秀吉は、その事を思い出しては涙するほど喜んだそうです。

その後の名物の運命

こうして、価値の高まった茶道具でしたが、本能寺の変の際にはいくつかの名器が運命を共にしています。 それ以外のコレクションの多くは秀吉が受継ぎ、その後は徳川家など、様々な所に受継がれました。

そしてその名器達は、時を越えて現在にも残されています。多くは美術館などで見られますが、今も輝きが失せる事はありません。

信長ゆかりの品

九十九髪
九十九髪
(静嘉堂文庫蔵)



松花
松花
(徳川美術館蔵)



勢高
勢高
(頴川美術館蔵)



富士
富士
(前田育徳会蔵)



天猫姥口釜
天猫姥口釜
(藤田美術館蔵)



柴田井戸
柴田井戸
(根津美術館蔵)



信長井戸
信長井戸
(畠山美術館蔵)





ページの先頭へ戻る